ドレスが出来上がっていく様子をお伝えします
by robecamelia
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Atelier Yuka

~コラム『クラシック音楽とドレスのマリアージュ』連載スタート~

~コラム『クラシック音楽とドレスのマリアージュ』連載スタート~

2010年5月にパリで初めて開催した音楽演奏会ドレスの受注会。

それから今日までの間、思いがけないほどの多くの方々に興味を持っていただき、 また実際にドレスをご注文頂き心よりお礼申し上げます。

オーダードレスの魅力をお伝えするために、 コラム『クラシック音楽とドレスのマリアージュ』を掲載することに致しました。 この曲を演奏するならこんなドレスで・・・というイメージをお伝え出来ればと存じます。 音楽の専門知識の部分におきましては、いつもドレスをお作りさせて頂いておりますピアニストの方に監修頂きました。そしてその曲が生まれた背景を、その時代に関する専門家の書物などと重ね合わせながら、より深く踏み込んでドレスのイメージと繋げました。

それぞれの方にお好みがあるように、私だったらこの色ではなくて別の色が良い、 もっとこんな感じに、と多くのことを思われると存じます。 それこそがオリジナルでありオーダーでドレスを作る大きな意であると思われます。 これが正しいこれが間違っているということではなく その方お一人おひとりがより美しく、その演奏会に対する思いが感じられるドレス作りが出来ればと考えております。 もちろんドレスは衣装にすぎません。鍛練をかさねた卓越した技術、そして音楽への思い、その方らしさを演奏会で表現することにおいて ドレスもひとつの要素を持ちながら、コンサートホールが最上質の空間になることを願ってやみません。

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『クラシック音楽とドレスのマリアージュ』
No.1 英雄ポロネーズ×サファイヤブルードレス

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☆サファイヤブルードレスのイメージ 格調高く、少し男性的な雰囲気のドレス。色はサファイヤブルー。

フリルやふんわりしたものは一切取り除き、ドレスのカッテイングを生かしたもの。 ドレスの生地も厚めの先染めサテンやベルベットなど。

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ピアノの詩人と呼ばれたショパンの名曲、ポロネーズ第6番変イ長調 作品53、通称「英雄ポロネーズ」。

ショパンは生涯、全12曲のポロネーズを作曲している。ポーランドの伝統的な舞曲のリズムに密接に結び付き、彼の大きな愛国心を感性豊かに表した作品である。勝利を歌ったものや、敗北の苦渋を語っているものなど、曲によって様々ではあるが、すべては愛する祖国への思いが込められている。

なかでもこの第6番英雄ポロネーズは、すべてのポロネーズのなかで愛国心の名にふさわしい、栄光の思いに英雄的な響きを永遠に結びつけた作品として、広く認められている。

1831年、ワルシャワの11月革命。ポーランドはロシア軍に制圧された。20歳で祖国を失ったショパンの心のうちは、想像を絶するものである。

この曲が作曲された1842年前後の時期には、他にバラード第4番やスケルツォ第4番、ノクターン第13番、即興曲第3番など、名曲が次々と作られ創作の絶頂期と言われている。この時期彼はノアンの館という、恋人ジョルジュ・サンドの別荘で、彼女の庇護の下、作曲のみに専念することができたといわれていて、金銭的にも精神的にもなにひとつ不安を感じることなく打ち込んだ様子がうかがえる。まさに力強さのなかに余裕と格調も感じられる作品となっている。

しかし何時なんどきでも、ショパンの故郷を想う特別な感情は、消えることはなかったであろう。

祖国ポーランドへの誇り高き民族精神が、荘厳で高らかに変イ長調の第一主題としてあらわれ、これは今日、誰もが一度は耳にしたことがある有名なフレーズである。

この作品こそ、祖国ポーランドを賛美する謳歌といえるのではないか。

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このような勇壮な作品が生まれたノアンでの美しい日々、どのように美しいものに囲まれていたのであろうかとの思いに、ショパンの様子について書かれたものを探してみると、「彼はピアノのところに一人で、あるいはジョルジュ・サンドと二人でいることが好きであった。二人はテラスに出て月の光のもと長い間話し合ったり、庭園や近くの森を散歩した。」とある。

夏のノアンでは、夕食になると、色付けされた戸を開いて食堂に入り、ヴェニスの吊り燭台が美しく照らし出す長テーブルを囲んだ。そんな様子を「住まいは広々としていて音が鳴り響いています。おいしい空気、素晴らしいピアノ、そして素敵なショパンが待っています」とサンドは友人への書簡に書いている。

1839年10月から1841年6月までの20カ月間、ショパンとサンドはノアンを留守にしてパリで生活している。「冬が近づくにつれ、ショパンが悲しげになる」ことにサンドは気づいていた。ショパンはポーランドの友人たちとともに、酒場やトロンシェ通りの自分の家で食事をすることもあったが、ピガール通りのサンドの住まいですることが多かった。中庭には小さな離れもあり、パリに出てくる友人たちがここで再会を楽しめるように、心のこもった調度品とパリ中捜した家具が備えられ、快適な住まいとなっていた。
ノアンから送られた鶏や狩りの獲物、リンゴ、クルミ、栗でパリの人々をもてなした。その素晴らしい食事は、彫刻をほどこされたオーク材の家具のある食堂で供され、画家、音楽家、演劇家たちが招かれた。
食事のあとは絵や中国の壺に囲まれた小さなサロンでカフェ・オ・レとなり、ショパン、その友人のグジマワ、詩人のハインリッヒ・ハイネ、画家のテオドール・ルソーとサンドの肖像画を仕上げたばかりのルイージ・カラマッタ等と夜更けまで語り合ったとオノレ・ド・バルザックは書いている。

その翌年も寒い冬をパリで、夏季休暇をノアンでという生活を繰り返した。ノアンの館によく訪れた画家ドラクロワとも親交が深く、サンドが友人に宛てて書いたように、ドラクロワは「喉の痛みも忘れるほどに熱中して」ショパンと際限なく論議していたという。芸術家とその表現方法をいつも話題にし、ドラクロワは芸術のさまざまな形式が出会うところ、「絵の色調と音楽の響き」の一致するところを求めていた。画家が求めているのは絵画と音楽の類似点ではなく、「反映」というものであった。しかしショパンはこの言葉から陰影、浮き彫りということを思い起こしたが、作曲においてはそれは固定するものではないと考えた。サンドは彼らの言いたいことがよく理解できた。目に快い「穏やかな色調」とは「心地よい転調」に呼応する。ショパンの音楽を聴くとき、サンドには「青い音」が聞こえる。親しくなればなるほど、ドラクロワはショパンの感受性の鋭さを感じ、ますますショパンに興味を抱いた。一方ショパンはドラクロワの作品に強い衝撃を受けていた。とある。

1842年8月、寒さだけでなく暑さにも弱いショパンは体力も消耗したが、サンドが彼を数日とこに就かせ看病に専心したことで回復に向かった。
英雄ポロネーズ 変イ長調 を生み出すのに苦悩していたショパンを不安に思って、隣の自分の書斎で眠ることもあったという。サンドは「ショパンはもう陰気ではありません。作曲に取りかかろうとしていますし、私たちはまったくいい友人関係にあります」と友人に宛てている。

【参考文献・資料】 シルヴィ・ドレーグ・モアン、小坂裕子訳『ノアンのショパンとサンド―夏の愛の日々―』音楽の友社、1992年。


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by robecamelia | 2014-01-26 19:37 | robe

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